じいちゃんが死んだ①

 

9月2日、最愛の祖父が亡くなった。

その日12:00から仕事だった僕は出勤しようと車に乗り込んだのだが、些かハンドルが重いことに気がついた。怪訝に思いながら確認すると右の前輪がパンクしていた。

母親は僕が働く職場の副所長のような役職であり、「遅刻の連絡するついでに迎えに来てもらおう!」と思い母親の携帯に電話をかけた。

すると、いつもならば数コール目で出るのだがなかなか出ない。かけ直しても出ない。もう一回かけ直しても出ない。結局その時何回かけても母が電話に出ることはなかった。

しょうがないな、と思いながら職場の番号に電話した。施設長が出た。たまたま手が空いていた1つ下の仲のいい後輩が迎えに来てくれる事になった。電話を切る際に施設長は僕にこう告げた。「母親は叔父と祖母を連れて病院に行っている」と。

嫌な予感がした。予感というより確信に近かった。祖父は5月頃から約4ヶ月もの間入院していた。その状態がかなり悪い事は知らされていたし、モルヒネ(スーパーつよつよ鎮痛剤)を使っていることも知らされていた。辛うじて声が出せる時に「早く楽になりたい」と言っていたことも知らされていた。

20分ほど経って後輩の見慣れた黒いスティングレイがこちらに向かっているのが見えた時、母親から着信が入る。

直ぐに出た。「もしかして」は「やっぱりか」に姿を変えた。

「じいちゃん、亡くなったよ」

と涙を押し殺したような声で母親は言った。

 

 

 

後輩の運転する車に乗って職場へと向かった。電話口にて母親から「コロナ予防で3人しか病室に入れないから取り敢えず仕事してて!家(祖父母宅)にじいちゃん送ってもらったら職場に迎えに行くから!」と言われたからだ。

祖父の悲報を聞かされた時に広がったのは意外にも安堵に似た感情だった。「今までよく頑張ったね」とか「辛かったね」とか「痛いって言ってたしね」みたいな。

遺体の自宅搬入が終わり次第母親が施設に連絡する、とのことだったのでそれまでは何も考えずに業務に取り掛かる事にした。正直気が気じゃなかったがつつがなく業務をこなし、母親の運転する車で祖父母宅へと急いだ。

 


僕が3歳の時に母親はこの職場に入社したらしい。共働きである故に僕は幼少期の殆どを祖父母宅で過ごした。祖父は漁師であり口少ない強面な海の男だった。僕は末っ子だったためか祖父からかなり可愛がられて育てられた。実際今回の葬儀でも幾人の親戚から「あんたのこと泰夫(祖父)は一番可愛がっとったよなぁ」と声をかけられた程だった。

考えれば考える程に今の僕を構成する要素の殆どに祖父が関わっている。例えを上げ出してみるときりがない。

自分が学がないから、と色んな児童書を幼い僕に祖父は買い与えた。たしかズッコケ三人組シリーズだったか?僕の趣向は児童書からやがて純文学へと代わり、自分で小説を書き始めることになった。そのおかげで今のKKK勢との繋がりが出来た。

「ゲームをすると頭が悪くなる!」みたいな思想を持つ父親に内緒で今は懐かしきゲームボーイアドバンスポケモンルビサファをこっそり買い与えた。DSやダイアモンドパールも買ってくれた。そのおかげで巡り巡って今のシンカジュフォロワーとの繋がりができた。

他にもギターを何本も買ってくれてそれで簡単な弾き語りしたら涙を流して喜んでくれたり。陸上部に入部したら遠い長崎のグラウンドまで足を運びこちらからしたら恥ずかしいほどの大声で応援してくれたり。陸上部を辞めてブラスバンドを始めたら必ずと言っていいほど僕の演奏を聴きに来てくれたり。

生まれて初めて買ったCDははっきり覚えてます。というか祖父から貰ったお年玉で買ったものだけど。

BUMPOFCHICKENのorbital period。その6曲目のsupernovaの「本当の大事さはいなくなってから知るんだ」と言う歌詞に今涙を流しています。

疲れたから今日はここまで